何とも後味の悪い都知事のやめ方になってしまった舛添都知事ですが、
もう少し大人の対応が出来なかったものかと悔やまれます。
残務整理が済んだ20日の午後4時過ぎ、お見送りもなしの寂しい退場となってしまいました。
目次
■最後の執務に見送りなし
舛添知事は、昨日(6月20日)が最後の執務になりましたが
終わり方としては、次のステップが危ぶまれる残念な最後になってしまいましたね。
元東京都知事の石原さんや、問題が発覚して辞任に追い込まれた猪瀬さんの時でさえも、
都の職員が花束をささげてお見送りはあったのですが、
今回はまったくありませんでした。
舛添さんから職員に対してのメールでの挨拶もなかったということのようです。
各界へのあいさつまわりもなし。
自分で招いた結果であっても、最後は大人のけじめが欲しかったですね。
舛添さんの終わり方としては、
バツが悪い最後の締めくくりになってしまい非常に残念に思います。
大人げないというのか、都民に対してのけじめというか
もう少し何か去り際の美学があっても良いと思うのですが。
都民には最後まで納得のいく説明もなし、会見もせず理由も明かさないまま、
挨拶もなく逃げるように辞めて行かれることになってしまいました。
舛添さんてこんな人だったんですかね。
舛添さん自身も、なんでこんなになってしまったのか
未だにわからない、納得していないというのが本音なのでしょう・・・
■貧しかった少年時代
舛添都知事の生い立ちが、TVで放送されていましたので
メモを取ってみました。
舛添さんは、福岡県八幡市、現在の北九州市八幡東区で生まれ
高校卒業までの18年間をこの土地で過ごしています。
舛添さんは長男ですが、4人のお姉さんがいて末っ子だったんですね。
実家のあったところも今は舗道になっていて
何も残っていないようです。
当時を知る人はこう語られています。
舛添知事が幼少の頃、大きな国道のすぐワキには市場があったそうで
そこで両親が青果店を営んでいました。
働き者でまじめな両親だったようですが、生活はいっぱいいっぱい
あまり裕福でもなかったようだと昔をご存知のかたは話されてます。
当の舛添青年ですが、
幼稚園の頃から頭がよく近所でも評判の子だったようです。
中学生に入るころには、その神童ぶりに拍車がかかり
“自慢の舛添君”という呼び名の通リ
成績は500人中、常にトップだったといいます。
しかし、不幸は突然来ます。
中学2年の時、お父さんが亡くなられました。
父親が亡くなり、青果店はつぶれ、さらに生活は困窮していきます。
舛添さんは貧しい中でも、陸上部に所属、夜遅くまで勉強し、
九州で一人しかいなかったという奨学金をもらいながら
1967年、見事に東大法学部に現役入学されています。
過去を良く知る同級生や親族の方たちにとっては、
まさに“自慢の舛添さん”だった訳です。
同級生たちは、口をそろえて語られています。
「何故、潔くさっさ謝らなかったのか!舛添君らしくない!」
常に努力家で強い信念を持っていたという舛添さん。
苦労人で勉学一本でここまでのし上がった経歴は絶賛に値するでしょう。
そんな舛添さんが何故、こうなってしまったのかについて、
親族のめいの方はこう話されていました。
■裕福層への強いあこがれ
舛添知事の実家の前には八幡製鉄所の社宅がありました。
八幡製鉄所は、当時、北九州工業地帯を中心として発展していて
高度経済成長期を支えていました。
その重役の家が実家の前にズラッと並んで建っていたそうです。
貧しい少年の目に映った、重役たちの裕福な生活。
舛添少年は、そんな生活を幼い時から見ていたといいます。
うらやましいというか憧れがあったのではないか。
と姪の方は語られていました。
憧れとともに、強くなっていった上昇志向と反骨心は、
やがて1999年の都知事選に立候補した頃から少しずつ現れはじめます。
母の介護体験などを訴えて都知事選出馬。
母が嫌がっている中、TVの取材クルーを招き入れたりしたため、
親族からは母を選挙に利用したのでは と強い反発もあったそうです。
このころから、少しづつ政治の頂点をめざし
周りも少しづつ彼の変化を感じ取るようになってきたようです。
そして、2001年参院議員に初当選し、安倍内閣で厚労相に。
2010年、自民党を離党し、新党改革の代表を経て、
2014年には東京都知事に就任。
今日が都知事の正式辞任の日となりますが、
登庁はないようですね。
寂しい最後になってしまいましたが、
ここにきて、貧しい幼少時代から国のトップまで上り詰めた
田中角栄さんのことがふと頭をよぎるのは私だけでしょうか。
まとめ
意図的に何も語らず去っていったとしか思われない舛添知事の退場でした。
市民から選ばれて都知事になった訳ですから、もう少し配慮というか謙虚な気持ちが欲しかったと思います。